2013年7月18日 (木)

学ぶ

ちょっとツイートのようで恐縮です。

私は、イエス・キリストの人生から何を学ぶだろうか。又、釈尊の人生から何を学ぶであろう。

それこそ、その内容は無限であろう。底なしの中で、有限の自分を生きる。そのエネルギーは無限とつながっている。ニヒリズムの克服である。
衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成 の所以である。

2013年7月17日 (水)

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「光正」または「Ily piano」がユーザー名です。こちらももしよろしかったらどうぞ。

空底から光正へ

久しぶりのブログです。色々あり、某兵庫県にあるお寺に修行に行ったりして居りました。

さて、そのお寺で、「光正」と言う名前が降ってきたのです。今までは、唐子先生の提唱を踏まえ、「空の場」と「底が抜ける」と言う先生独特の表現から「空底」と名乗って居りました。しかし、6月初旬に、「光正」と名付けられたのです。空の場に居るのが常態となり、そして、そこに有る光と、この世に有って、正しくあれ、と言う事でしょうか。

世界宗教であるキリスト教と仏教には、普遍的な共通するものがある。もう一つ、イスラム教もそうであるかも知れない。井筒俊彦氏の著作に今度当たってみよう。今は、西谷啓治氏の「風のこころ」から、目からウロコの毎日。いやあ、人生は深く、森羅万象は不可思議だ。素晴らしい。

2013年5月 9日 (木)

復活のイエス・キリスト、そして昇天

イエスの復活について、先日、仮死からの蘇生という旨のことを書いたが、では、復活後のことはどうだったのだろうか。・・・40日後に昇天とある。やはり、十字架で受けた傷が重症で、1ヶ月ちょっとで死に追いやられてしまったのか・・・。それとも、ほんとうに、「シュワッチ!」という感じで天に昇られたのか、そうなると、私には分からない。しかし、色々な奇跡や神秘は起こります。あったのかもしれませんね。

モーツァルトの音楽について

先日、私は、モーツァルトの音楽を「本来の面目」と書いた。しかし、今日思ったが、違うような気がする。「本来の面目」とは、父母未生以前と称されることでも分かるように、人情を排したものである。「神」「仏」「如来」と言われるが、モーツァルトは、人の感情に楽しく訴えて来る。・・・どうも違う。

やはり、本来の面目と言うなら、バッハやブルックナーだろう。ベートーベンにも時にそういう旋律や響きを感じる。・・・まあ、クラシック全般に言えるだろうか。    ・・・であるから、ポップスのように売れるわけはない。

2013年5月 6日 (月)

ヒトラーの誤算、フルトヴェングラー

最近、フルトヴェングラーの録音をよく聴く。解説のブックレットには、必ず、第2次世界大戦中のことと、戦後の非ナチ化裁判のことが書いてあるが、フルトヴェングラーは危うくイエス・キリストのようになるところだった。いや、正確には、彼は、1954年、自ら死を選び、肺炎となって亡くなった。

クラシック音楽は、この世ならざる、神や仏の世界のものである。神や仏は「絶対善」であり、争いの世界とは無縁である。「神の愛」、「仏の慈悲」と呼べれる所以である。

まして、フルトヴェングラーは、現在残っている録音やその著作からわかるように、神がかった、神を感じた方である。ドイツに残るよう頼んだのが、シェーンベルク(彼はユダヤ人だった。)だったというが、これが、ナチスドイツが負ける要素の1つとなったのではないだろうか。ホロコーストも、そうやって失敗した。・・・最悪の事態も、結局は「神性」「仏性」が人に宿る証明となってしまった・・・・と、論が飛躍してはいるが、言えると思います。

フルトヴェングラーの大戦中のあの演奏をきいて、人殺しをしたり、悪をなそうと思いますでしょうか・・・・。

戦後、ユダヤ人の中でも、メニューイン氏はフルトヴェングラーを正当に評価していた。誰がどうとは言うまい。    
普遍的な、神や仏を感じられる人であれば、もはや、何々人とかそういうことは関係なくなるでしょう。歴史に残るとは、そういうことかもしれません。

2013年5月 3日 (金)

縁結びに!家庭円満に!刑務所に愛の手を!世界平和に!マタニティーだけではもったいない、「モーツァルト」

タイトルにほとんど書いてしまいました。そう、「モーツァルト」です。BGMにモーツァルトを流して効果抜群!胎教に、夫婦問題解決に、カップルの恋成就の甘いムード作りに、刑務所での更生(?)に、淋しい夜に、ヒトラーの慰めに、世界平和に、・・・・。私は、モーツァルトの音楽が好きだ。バッハは神に対する祈りに聞こえるが、モーツァルトの音楽は、人間臭いところがない。ベートーヴェンは、自分を含めていて、時に仏教の悟りの境地のような響きもあり、人の子の独白のようなときもあり・・・・。モーツァルトは「本来の面目」だ。(私がとある山奥の禅寺で修行をしていたとき、なぜか、典座寮に、モーツァルトのお菓子があった。メイドインオーストリアの。)

(クリスチャン)必見!イエス・キリストの死、復活その真偽に決着!

イエス・キリストが復活した、と言うことを「ありえねー」と言う方が、見ていない人から出てくる。2000年経った今でも(?)そうだ。

しかし!おかしいではないだろうか。十字架にかかって6時間位で亡くなったことになっている。本当だろうか。

20世紀末、「臨死体験」がよく取り沙汰され、今では別段珍しいことではなくなったようですが、イエス・キリストも、或いはそうだったのではないでしょうか。復活の後、弟子の某にわき腹の傷を触らせたりして、そのままであったようですから、生まれ変わった訳ではないようですし、まして、イエスの弟にイエスの霊が取り付いた訳でもないのではないでしょうか。

イエスが十字架で死んだのは、仮死状態だったように思います。その後起きたと言う大きな地割れのショックが、心臓にAEDのように作用したのではないでしょうか。・・・そして、その頃、生死を彷徨っていたイエスは、何かしら神秘体験をしていたのではないでしょうか。・・・まあ、教学というよりは、フィクションに近いかもしれませんね。

2013年4月28日 (日)

4月28日 新座市滝見観音堂 唐子正定師提唱

本日の提唱は、正法眼蔵「坐禅箴」の巻の、岸沢老師の全講の中の、碧巌録第40則を解説されました。

先生の緻密な読みは、大雑把な捉え方で見落としがちな、祖師の緻密さを示してくださいます。

南泉和尚の、花を指さし、・・という、その指すという行為が、夢・幻ではない現実の花そのものを示し、・・・「空」というぼんやりとしたものではなく、個別的実体を持った「色」(色即是空の)を示している、ということ。そして、その花自体が無言の説法をしている、つまり、それを見る側が無我で見ればそれそのものを捉えられる・・・西田幾多郎はそれを直接経験や純粋経験という言葉で表現している。

更に、「誰と共に・・・」の所は、誰、即ち我の事であり、あくまで見るのは私だが、その私が無我の我であってこそありのままの実体を見ることができる、道元禅師は「吾有時」とセットにされていますね。

無論、だから私が尽界全て私ギリ・私だけと言っても、自分の自我を宇宙大に拡大するのではなく、無我になったとき、全宇宙の「空」が全面に現れると言うことでしょうか。ですから、只管打坐の時のみならず、何をなしても、其処に自我が消えていれば、尽界が顕わになる、即ち「成り切ったら成仏(横山老師)」ということでしょうか。

つぎは、GW後半の接心でお会いしましょう。

2013年4月27日 (土)

神経痛

猥談は慎むべきである、と、道元禅師の「正法眼蔵随聞記」の中にある。

たとえ一時の「神経痛(澤木老師の表現)」であっても、それが半永久的に残ればそれは恥ずかしいものである。子孫が残るということは、本当は恥ずかしいことなのかもしれない。だから(本当の)僧侶は独身なのだろう。

宮本武蔵ではないが、永劫に「今日は昨日の我に克つ」を続けるのがよいのだろうが、それは「立派に生きよう」という「欲」ではないかと思うが、しかし、欲は欲でも本能欲(「鼻の下と神経痛」)ではなく、仏や神の欲、とでもいうのか。大自然はむさぼらず、盗まず、与えて・・・・ああ、私は・・・頑張ろう。 精進するのがしんどい。

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